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ラピスラズリ 02 | ユバログユバログ

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ラピスラズリ 02

 私はふわふわと空を飛んでいた。
 ぽかぽかのお日様が空から降り注ぎ、暖かく身体を包む。
 雲ひとつ無い真っ青な空と、大地を埋め尽くす草原はどこまでも続いていて、そんな中を私は飛んでいく。
 どこまでもどこまでも。
 ふと、眼下の草原に小さな点のようなものを二つ見つけた私は、体をひねり、ゆっくりと高度を下げていった。
 段々と二つの点は形を変え、ようやくそれが人影だと認識できたその時、私はまどろみの世界から目覚めた。

「いってらっしゃい」

 閉じていたまぶたの隙間から、ほのかに暖かい光が差し込む。
 ぼんやりとした頭と、まるで痺れているかのような身体中の筋肉を総動員して起き上がり、ゆっくりと目を開けると、少し冷たい空気が頬を撫でた。

「…………?」

 ここはどこだろうか。
 しょぼしょぼする目をこすりながら周りの様子を伺うと、まずは自分の体を包む毛布とベッドが目に入る。
 次に、綺麗に整頓された部屋の内装と、暖かな陽の光を漏らすカーテンの付いた窓が目に映った。
 どろどろだった思考が速度を上げて覚醒し、自分の状況を思い出させる。

 そうだ。私は昨日、人間に買われたのだ。

 そこへ思考が辿り着いた瞬間、私は飛び跳ねるようにベッドを抜けだした。
 とんでもない事をしてしまったという考えで頭がいっぱいになる。
 日の高さから見て、どうやら今は昼に近い。普段の自分ならば、寒さで深く眠ることもない為、日の昇る前には起き上がり、人買のために水桶いっぱいに水を汲んでいたのに。温かな寝床というものは、こうまで人を油断させるものなのか。
 恨み言を考えても仕方がない。まずは罰を受けなければ。どれだけ人間が怒っているのか想像もできないけれど、昨日の様子から考えるに、殺されるようなことはないはずだ。

「……っ!」

 考えるのももどかしく、ゴムまりが跳ねるように部屋のドアを開けると、そこでは昨日の人間がお茶を飲みながら本を読んでいた。

「おや? そんなに慌ててどうしたんですか?」

 人間の言葉が終わるか終わらないかの所で、私は身体を床に這いつくばらせ、頭を下げる。
 こういう時、何かを言うのは逆効果でしかない。静かに、悲鳴をあげず、ただ殴られ、蹴られ、相手が飽きるまでは耐えるしかない事を私は知っている。
 相手が欲しいのは謝罪の言葉などではなく、自分を苛立たせた相手が血を吐き、苦痛に呻くのを見たいだけなのだ。
 この後に来るであろう苦痛を少しだけ想像し、震えてしまう身体を抑制しようと力を込めるが、真逆に震えは大きく、誰からも見えてしまう形で現れる。自分にも聞こえる音で歯がカチカチと鳴るのがわかる。
 そんな私の耳に、人間が椅子から立ち上がる音が入った。人間は椅子から立った後、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。
 まずは蹴られるのだと予想し、人間が来る側へぎゅっと力を込める。だが、予想された衝撃は来ない。
 音と気配で人間が私の前に立ちはだかっているのがわかる。この体制ならば、踏みつけられるか殴りつけられるか。もしくは蹴り上げられるのか。
 どの選択肢を選ばれるかわからないため、頭と身体は混乱し、自然と瞳から涙がこぼれる。
 どうしてベッドの中で眠ってしまったのか。眠りに付く前に、こうなることを予想し、ベッドから抜けだして床で寝るという選択肢もあったはずなのだ。それなのに、油断してしまった。この人間の与えてくれた食べ物と、暖かい寝床を享受し、甘えてしまった。
 幾度も幾度も人買いから殴られ、蹴られ、絞めつけられ、繰り返し言われた言葉を今になって思い出す。

 私は『物』なのだ。

 物には意思も、自由も、尊厳もありはしない。
 ただ主を喜ばせるためだけに存在し、主のためだけに尽くさなければならない。自分自身が幸せを享受するなど以の外。そう学ばされたではないか。
 思考は堂々巡りを始め、瞳からは涙が溢れ、喉からは嗚咽が染み出す。
 そんな私に業を煮やしたのか、人間が身体を近付けるのがわかる。どうやら人間は殴りつける選択肢を選んだようだ。
 そう考え、頭と背中に力を込めようとするが、混乱した身体はうまく力を込められない。このままでは痛みが増してしまう。悲鳴を上げてしまう。苦痛が続いてしまう。

 死にたくない。

 思考がその言葉でいっぱいになった瞬間、私の耳に、人間の言葉が優しく飛び込んできた。

「安心して。ね?」

 おそるおそる顔を上げると、困ったような、それでいて笑顔の人間がそこにいた。

「涙と鼻水で顔が大変なことになってますよ?」

 人間は苦笑し、自分の服の袖で私の顔を拭う。
 混乱した私がどうしていいかわからず、顔を上げたままで固まっていると、人間はゆっくりと優しく私の身体を抱きしめ、ポンポンと優しく背中を叩き、言葉を続けた。

「大丈夫。大丈夫ですから」

 その言葉はとても優しく暖かく、ゆっくりと私の心に染み込んでいった。
 不思議と体の力が抜け、同時にカチカチとうるさかった歯も、身体の震えも収まる。
 だが、涙だけはどうしても止まること無く、後から後からぼろぼろと溢れ、優しく抱きしめる人間の服を濡らし続けた。
 私が泣き続ける間、人間は怒るでもなく、何かを言うこともなく、ただ優しく抱きしめ続けてくれた。
 どれほどの時間が過ぎたのか、自分でもよく思い出せないが、ようやく涙も枯れ果て、私が顔を上げると、人間は優しく微笑んで語りかける。
 
「落ち着きましたか?」

 のろのろと頷くと、人間は床に這いつくばったままの私の手を取り、ゆっくりと立たせる。

「では朝食……いや昼食ですかね。おっと、昼食の前に、顔を洗っちゃいましょうか」

 そう言って人間は部屋を出て、しばらくして水を張った桶を持ち戻ってきた。
 促されるままに顔を洗い、滴り落ちる水を人間の渡してくれた手ぬぐいでごしごしと拭う。

「では、しばらく座って待っていて下さい。すぐ用意しますので」

 私を先ほどまで自分の座っていた椅子へ座らせ、人間は水桶と手ぬぐいを持ち、部屋を出た。
 残された私は、どうしていいかわからず、部屋の中をきょろきょろと見渡す。
 昨日来た時は疲れ果てていた事や、目まぐるしく変わる環境について行けず目に入らなかった物が色々と飛び込んでくる。
 落ち着いた色の家具。ぱちぱちと燃え、部屋を暖める暖炉の炎。昨日、食事を取ったテーブル。そして、人間が読んでいた本。
 小さな興味が湧いて、その本へ顔を近付けていると、人間が部屋へ戻ってきてしまった。驚いた私がじたばたしていると、人間は少しだけ驚いた顔をした後、いつもの笑顔を見せて言う。

「本に興味がありますか?」

 興味も何も、私は字が読めない。その事を伝えようとする私を人間はじっと見つめた後、少しだけ思案して眉をひそめた。

「昨日から少し気にはなっていましたが……失礼、食事の前にちょっとだけ確かめさせて下さい」

 そう言って人間は私へ近づき、顔へ手を触れた。
 身体を強ばらせる私に「大丈夫。痛い事は絶対にしません」と言った後、慎重に喉や頬に手を当てる。

「口を開けてもらってもいいですか?」

 人間の言葉に少しだけ躊躇したが、心配そうな顔をしている人間を見た後、決心して口を開いた。
 私の口の中を見た瞬間、人間の顔が険しい物に変わる。驚いた私が思わず口を閉じると、人間は慌てて表情を変えた。
 その表情は、笑顔ではあるのだが、今にも泣き出しそうな顔に見える。心配になった私は、おずおずと手を差し出すが、自分でもその手をどうしていいのかわからない。そんな私を、人間は不思議そうに見つめた。
 結局、差し出した手をどうしていいかわからずに下ろすと、人間はぽんぽんと私の頭へ手を置いて、無言で私へ背を向け、おそらく、昼食を用意するためなのだろう厨房へと向かおうと歩き出す。
 反射的に体が動いた。

「え?」

 ぽすんと背中へ飛びついた私を、人間が不思議そうな顔で見つめる中、私はさっきしてもらったように両手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
 なんとなく。なんとなくだが、こうしないといけないような気がしたのだ。そうしないと、ずっとこの人間は何かの罪を背負い続ける。そんな気がしたのだ。
 そんな私の心中を知ってか知らずか、人間は少しだけ困ったような顔をしたが、すぐに先ほどとは違う、心からの笑顔を私に返して言ってくれた。

「ありがとうございます」

 そう言って人間は、今度こそ厨房へと向かう。手持ち無沙汰な私が椅子に座ってしばらくすると、昼食を運んできた。

「すいません、昨日の余りのシチューがメインになります」

 人間は苦笑して私の前へシチューと目玉焼きを置き、テーブルの真ん中にパンを幾つか入れたバスケットを置いて正面に座る。

「では頂きましょうか」

 昨日の様子からだと、どうやら私も一緒に食事をするようなので、おそるおそるではあるがシチューに口を付けると、人間はとても嬉しそうな顔で微笑んだ。
 昨日の残りだというシチューは一晩寝かせたからか、具に味がよく染み込み、噛まなくても具がほろりと崩れてとても美味しい。パンは少しだけ硬かったが、そのパンを味の染みたシチューと一緒に食べると、得も知れないような幸せな気持ちになる。目玉焼きはちょっと焦げてはいたものの、胡椒の風味が鼻をくすぐり、これもパンとよく合う。
 あっという間に目の前の昼食をぺろりと全て平らげた私へ、青年が微笑みながら声をかけた。

「お粗末さまでした」

 そして空になった食器を厨房へと運んだ後、不思議な香りのするお茶を自分と私の分用意し戻ってきた。
 差し出されたお茶を口に含むと、果実のような香りが鼻を通り抜け、味はほのかに甘く、思わず頬が緩む。そんな私を人間はじっと見つめた後、自分の分のお茶に口を付けず、私に話しかけてきた。

「あなたが喋らないのは……いえ、喋れないのは、その口の中に施されたもののせいですね?」

 私はお茶を飲む手を止め、人間をしばらく見つめた後、こくりと頷いた。

「なるほど。ではもう一つ。僕の今までの言葉は『全て』理解できていましたか?」

 しばらく考えた後、首を横に振る。

「そうですか……」

 人間は思考を始めたのか、視線を中に彷徨わせ始めた。
 今、人間の言った通り、私は奴隷として幾つかの術を施されている。
 細かい原理はわからないが、それは口を起点とし、思考にも影響を及ぼすものらしい。
 その為、私は喋れない。喋ろうにも舌がうまく動かせない。耳から入る言葉の幾つかが理解出来ない。
 下卑た笑いを私に向ける人買いに言われたことがある。私の耳は、人の悪意をよく聞き、善意を聞き逃すのだと。最後まで怯え、悪意に飲まれて死ぬのだと。
 獣は獣らしく、人様の為に死ね。そう言いながら私を殴る人買いの姿を思い出す。自然と体は動き、椅子を降り、今も思考を続ける人間の足元へ膝をつき、這いつくばって頭を下げる。
 私はこの人間に買われ、生かされているだけなのだ。今は食事や寝床を与えてくれるかもしれない。だが、気まぐれで私を殺す事も出来る。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 ただその言葉だけが脳裏を埋め尽くす。

「顔を上げて下さい」

 人間の言葉が聞こえる。きっと、顔を上げれば殴られる。怒りに任せてか、気晴らしのためかはわからないが、きっと殴られる。蹴られる。
 殴られるのも蹴られるのも嫌だ。痛いのは嫌だ。その先にある死は恐ろしく、常に私を見つめている。
 私が恐怖で身体を縮こまらせていると、人間が椅子を降り、私の頭に手をかけた。
 髪を掴まれ引きずり回されるのか。無理やり顔を上げさせられ殴られるのか。そう考える私の頭を、人間はゆっくりと撫でる。優しく優しく。まるで触れたら壊れてしまう物を扱うかのように、そっと。

「あなたを助けます」

 まるで耳に膜が張ったかのように人間の言葉を聞き逃そうとする意思を無理やり抑えつけ、思考を張り巡らせる。
 今、この人間はなんと言ったのかを必死に思い出す。さらさらと砂のように溶けて散る言葉を繋ぎ合わせ、単語にする。

 あなたをたすけます。

 人間はそう言った。
 あなたを。私を?
 たすけます。助ける?

「僕の助けを望みますか?」

 今度は聞き逃さない。一度理解した言葉は、危うくではあるものの耳に捉えることが出来た。
 のろのろと顔を上げると、人間は怒るでもなく、さしとていつものように微笑むでもなく、真剣な眼差しで私を見つめていた。
 おそらく、私が拒絶すれば、この人間は何もせず、いつも通りの微笑みを返してくれるのだろう。これから先も、暖かい寝床と美味しい食事を与えてくれるのだろう。
 だが、それだけではいけない。私は、この人間に何かを与えなくてはいけない。その為には、今のままでは駄目なのだ。この歪んだ思考と、言葉を喋れない口のままでは駄目なのだ。
 
「……!」
 
 私が喋れない口で願うと、人間は微笑んで自分の指を差し出した。

「ちょっと早いですがおやすみなさい。次に目覚めた時は……」

 ぱちんと目の前で何かが弾けた気がした瞬間、私の意識はお日様の光りに包まれたように、ふわりと暖かな陽気に包まれ、夢の世界への旅を始める。
 とろとろとした蜂蜜のような世界を見ながら、人間の言葉の続きを耳にする。

「あなたのお名前、聞かせて下さいね」

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