「家に来ますか?」
この時に「いいえ」と答えていたら、自分はどうなっていたのだろう。
ふとそんな風に考えることがある。
今の生活に不満はない。それどころか満足している。
それでも思うのだ。色んなものを与えてくれたこの人に、自分は何を返せるんだろうかと。
人間の言葉をかけられたのは久しぶりで、最初は何を言われたのかすら理解できなかった。
何かを返さなくてはと思いながらも、呻き声のようなものだけしか発せず、横にいた獣人の機嫌が段々と悪くなっていた。
自分の目の前にいた人間のオス(顔の判別はつかない。人の顔の判別は難しい)は、そんな私に機嫌を悪くするでもなく、細い目を更に細くさせ、線のようにすら見える目で微笑みながら言葉を続ける。
「僕の家の子どもになりますか?」
ここで何かを返さなくては、今や機嫌の悪さを人間に隠す事すらせず、不機嫌に舌を鳴らす獣人に後で何をされるかわからない。
人間の言葉は正直に言うと理解すらしていなかったけれど、私はこくりと頷いた。
そんな私を見て、人間は嬉しそうに笑い、横の獣人といくつかの言葉をやり取りした後、幾らかの金銭を渡し、汚れた私の手を握った。
この日、この時、この瞬間、私はこの人間の所有物となった。
人間は私を小さな家へ連れていき、温かなお湯で汚れを落としてくれた。
体中の傷に石鹸の泡が染みて痛かったけれど、人間の機嫌を悪くしてはいけないとぎゅっと手を握り締めて我慢していた時に、それまで微笑んでいた人間が少しだけ悲しそうな顔をしていた。
いつ人間の機嫌が悪くなり殴られるのではないかと内心怯えていたのだが、予想に反して人間の手は、まるで陶器でも触るように私を優しく洗い流し、汚かった私の身体を綺麗にしてくれた。
「じゃあこれとこれ、後はこれを着てください。着かたはわかりますか?」
湯浴みが終わった後、人間から清潔な服や下着をいくつか手渡された。
本当は自信がなかったのだが、機嫌を損ねてはいけないと思った私は頷いて、着慣れない下着に足を通し、布で出来たシャツを羽織ろうとする。だが、焦っていたのか、上手く袖から手を出せず、もごもごと腕を動かし続けるだけの時間が流れた。
そんな私を見ていた人間は、しびれを切らしたのか両手をぬうっと私へ伸ばしてきた。
殴られると思い、体を強ばらせる私を見て、人間はビクッと手を止める。
怒りに顔を赤くする人間の顔を想像し、おそるおそる表情を伺うと、湯浴みの時にしたような悲しそうな顔をする人間がそこにはいた。
「大丈夫です。痛いことはしません」
人間はそう言って、表情を笑顔に戻し、服の袖から抜け出せない私の手を優しく袖から出してくれた。
殴られなかった安堵で胸をなでおろしている私へ、人間は言葉を掛ける。
「ご飯にしましょうか」
そう言って人間は厨房へ向かい、しばらくしていくつかの皿を持って戻ってきた。
皿の中にはパンと、ほのかに湯気のたつシチュー。そして瑞々しいサラダ。
私はいつも食事の時にしていたように、部屋の端へと座り、人間をじっと眺め、この後に出るであろう自分の食事に心を踊らせる。
パンのかけらと具のないシチュー、もしかすると野菜くずのサラダも出るかもしれない。夢に見たようなご馳走だ。
大きな音が鳴り出しそうな自分のお腹をぎゅっと掴み、人間の食事が終わるのを今か今かと見つめる。
「あの……? どうしたんですか?」
人間は不思議そうな顔で私を見つめ、疑問の言葉を投げかける。
私はそんな人間の言葉が理解できず、困ってしまう。
自分を所有している誰かが満腹になるまで何かを食べ、運がよければその余り物を貰うのがいつもの私の食事なのに、彼は一体なにが不思議なのだろう? 疑問なのだろう?
人間はなおも不思議そうにしながらテーブルへ皿を置き、私のところまでやってきてそっと立たせて手を引く。
「早くしないと冷めちゃいますよ」
私をテーブルまで連れていき、木で出来た椅子へすとんと座らせ、自分は正面へと周り椅子へ座る。
目の前に広がるのは、別々の皿に二人分用意された、ふわふわのパンとほかほかのシチューとキラキラ光るサラダ。
「さあ、どうぞ。味には自信がありませんが、お腹は膨れると思いますので我慢してくださいね?」
恥ずかしそうに言った後、人間は自分の前に並べていたパンを手に取り口に含む。
私が、どうしていいかわからず、おどおどと視線を彷徨わせていると、人間は食事をする自分の手を止め、困ったように頭を掻きながら尋ねる。
「あ、もしかしてお腹すいてませんでした?」
そんな訳がない。
たくさんいた周りの子の誰よりも弱くて、食べ物の取り合いにいつもいつも負けていた私のお腹はいつもいつもぺこぺこだ。
だから私が首を横にふるふると振ると、人間は何か思いついたのか「あー、なるほど」などと呟き、また悲しそうな顔をした後、ゆっくりと私の前の皿からパンを手に取り、私の手の上に置いた。
「これはあなたの分です。全部食べちゃっていいんですよ」
自分の手の中にあるパンをじっと見つめた後、顔を上げると、人間が微笑みながら頷いた。
いつ取り上げられるのかと思いつつ、震えながら手の中のパンを自分の口へ持っていく。
だけれどパンは取り上げられることもなく、私の口に入り、香ばしい香りが口いっぱいに広がる。
それが合図だったように、私の手は自分の意思でも持ったように、次々にテーブルの上の獲物を求めて忙しく動きまわった。
「あー、もっとゆっくり、ゆっくり」
心配そうな人間の声を他所に、口の中に食べ物を詰め込む。
途中、詰まってしまい喉を押さえる私へ、慌てたように人間が水の入ったカップを手渡す。
それを引ったくるように掴んで一気に流しこみ、またテーブルの上の狩りを再開する。
そんな私を口を開いて眺めていた人間は、しばらくしてから嬉しそうに。本当に幸せそうに微笑んで自分の食事を始めた。
お腹の中へめいっぱい食べ物を詰め込む作業のような食事が終わり、しばらく動けないでいる私へ人間が声をかけてくる。
「それじゃあ今日はお休みしましょうか。疲れちゃったでしょう?」
初めて味わう満腹という感情に支配されていた私は、人間の言葉を深く考えずに頷き、のそのそと椅子を降りて部屋の端へ移動し丸くなる。
「あ、駄目ですよこんなところで寝ちゃあ」
そんな人間の言葉を聴き、すっかり回転の鈍くなった頭で考える。
言われてみればこの部屋は、暖炉の火で暖かいし、何よりも豪華だ。きっと人間の寝床なのだろう。
私の寝床はどこなのだろうか? この家の入口辺りだろうか。
ぼろきれの毛布が用意されているといいのだが、見た限りはそんなものは無かったので、今日は寒さで眠れないかもしれない。
そんな事を考えながら部屋を後にしようとしていると、人間が近づき、手を握って私を部屋の横のドアの前へ連れて行く。
「ここがあなたの部屋です。ちょっと埃っぽいかもしれませんが、今日だけ我慢してくださいね」
そう言って人間はドアを開け、私を中へと招き入れる。
部屋の中にはベッドとテーブルに、小さな箪笥と本棚が置いてあった。
ふんわりと花のような香りが漂い、私を包む。
「寒かったら言って下さい。毛布はまだありますので」
人間は私をベッドへと連れていき、ぽすんと座らせて部屋のドアへ向かい、何かを思い出したように私へと向き直る。
「そうそう、忘れていました」
目を線のようにして微笑み、優しく言葉を続ける。
「おやすみなさい。また明日」
錬金術で名高いレヌリアという都に、小さな小さな錬金工房がある。
そこには、商売下手で人の良さだけが取り柄のような青年がいて、毎日を過ごしている。
ただし、それは昨日までの話であった。
この日、この時、この瞬間、小さな小さな錬金工房は、小さな小さな少女を迎え入れることになった。
このお話は、そんな青年と小さな小さな少女の物語。
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